嗤う伊右衛門

破境の物語


みな狂いたがっている

老母と寝なかったことを後悔する息子
逃げ場を求めて子をあやめた母親
その血と腹に汚泥を抱えた男
一人娘に毒を盛った父親
崩れた顔を隠さぬ女
父を介錯した子

それでも彼らは狂えない
それともみな
すでに静かに狂っているのか?

面子、美醜、愛憎、絆
彼らを正気に押しとどめながら
しかも執拗に自身の越境を唆す境界

勘違いした学者でもあるまいし
世俗の者に軽々と越境などできない
人でいるために自ら張った結界なのだから
しかし囚われたままで自分でいることも、できない

物語の主人公は、危うく儚げで
しかし人を追いつめるには充分強靱な境界たち

たとえば、蚊帳
空気を隔てるでも熱を遮るでもなく
視界さえも曖昧に浸透して
拒む相手を手引きするほど杜撰なくせに
主を閉じこめることには長けた結界
果てしなく続く寝苦しい夜にも似た舞台で
狂うきっかけをずっと待ち続けていたのだ
伊右衛門――
張られた結界が綻び
境界が自ずから破れるその時をずっと

岩との出会いは運命だった
伊右衛門は知っていたのだ
岩だけが張られた結界を破れることを

境界が破れるに勝る恍惚の時はない
破れゆく境界ほど美しいものはない


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